おはようからこんばんはまで。
心身調整所 FLUXE(フラクス)の代表、湊翼です。

フラクスは現在、谷町四丁目から
徒歩1分の場所にある心身調整所です。
心身に関してのいろんな情報を発信していますが、
その前に「そもそも湊翼って誰やねん」って
思っているあなたにまずは
胸焼けするくらいに湊翼の人生の一部始終を
お伝えすることにしました。

コース料理でいえば1品目から
サーロインステーキ400gを塊で出すくらいに
胸焼けさせて見せます。
それでは行ってみましょう!

―――――――――――――――――――

湊翼は琵琶湖が望める滋賀県の志賀町
という小さな町で生まれました。
ちなみに今は大津市と合併してるので
大津市となってます。

当時住んでた実家は喫茶店をやってて
おぼろげな記憶ではカウンター8席、ボックス5席
だったと思ってます。
夜は飲み屋として営業しててカラオケもついてました。

幼少期の湊翼はお客さんに遊んでもらうのとか、
カラオケで歌うのとかは好きでした。

いつ頃だったか両親が離婚して
お姉ちゃんと一緒にお父さんについていきました。

と言ってもお店もあるしお父さんと
父方のおばあちゃんがいるしで、
父親に親権が渡る珍しいケースだったと思ってます。

当時の湊翼は訳も分からず、
でも今の状況が大きく変わるのは嫌だし。
という思いだったんじゃないでしょうか。

小学生にも上がってない頃でしたから
変化なんて絶対嫌だと思った覚えはあります。

まぁその結果、おばあちゃんとお父さんと
お姉ちゃんとの4人で暮らしてました。
覚えてる範囲では保育園の時は楽しかったです。

大阪から来ていた親戚は毎週のように遊んでくれたし
迷惑をかけてました。子供だから当たり前ですけども。

親に買ってもらったりしたゲームや、
店のお客さんの兄ちゃんにもらったりした
ゲームが大好きでずっとやってました。

お店の営業中はお客さんがいると店先に出ちゃダメ
って言われてた気がします。

というか子供ながらに仕事してるってのはわかるから
邪魔しないってのは頭にあったんじゃないでしょうか。

そういや湊翼は耳が良いんですが今思うとサッカーの
シャビと一緒で小さいときにいろんな人が
話してる状況にいたから状況把握に長けたんじゃないかな。
それか前前前世が聖徳太子だったか。

話を戻すと、お姉ちゃんは遊んでくれるけど
少しずつ趣味もズレていくから
男兄弟とかほしいなって思ってました。

遊びの趣味が合う友達というより
身内が欲しいなって思ってたり。
お姉ちゃんは基本的にゲームはあんまり
付き合ってくれなかったイメージ。

でもお姉ちゃんが近くにいないと泣いてたこともあったり。
そして子供ながらにおばあちゃんとお母さんは違う
って感じてました。

母の愛っていうのか、祖母のは器のデカさみたいな。
なんといっていいのかわからんけど。
なんせ母の愛は母にしか出せないもんなんですよねぇ。

小学3年生の時に喫茶店を閉めて
転校することになりました。

子供ながらに自宅がお店という特別感がなくなる
悲しさはありました。

転校する悲しさは大きかったけど、
こういう時期の引っ越しなんて決定事項なので
子供の一言で何人もの大人が動きを
止めることはなくて、強制連行みたいなもんですよね。

強制連行されても人間ってたくましいもんで、
なんなと生活していけてました。
転校先でもゲーム大好き、遊ぶの大好きでした。

大きかったのは、友達に誘われて始めた野球でした。
楽しくやってたし、みんな上手いな~って関心してました。

当時の湊翼は足も遅いし、守備も全然だったので
控えもいいとこでしたけども。

転校したって言っても校区は近いから保育園、
小学校の友達と中学校に上がって再会することになります。
中学校は部活で野球ばっかりしてました。

控えもいいとこの湊翼でしたが自然と
野球部に入ることにしてました。

大して葛藤とかはなかった気がします。自然な流れ。
結局中学も最後の試合は控えだったんですが、
最後の大会、代打で出てヒットを打った時の感触とか
高揚感が忘れられなくて、高校でも野球をして
いっぱい練習してやるって思ってました。

中学は部活もやってたけどゲームもしてたし
授業も適度にできてました。

優等生寄りの普通の生徒くらいだったんじゃないかな。
協調性は〇だった気がする。

文化祭はめちゃくちゃ楽しかったです。
昨今の感染対策ではありえない程に
密室で暗い体育館でダンスしたり、
クラス演劇では脚本書いたりと楽しむときは楽しみまくる。
自分の思ってることを出せるタイミングなら
惜しみなく出すようにしてました。目立つのも好きでした。

高校に進学するとき時、受験とかは考えず
簡単なところに行こうと思っていて、
その中でも野球の弱いとこに行こうとしたら
お父さんに止められて強豪校行くことになったのは
人生の転機だったと思っています。

当時アニメでメジャーがやってて
弱小校で勝ち上がっていくシナリオに憧れてたんですが、
海堂高校に行くことになりまして。
県内屈指の高校に入って必死に練習しました。
めちゃくちゃキツかった。

素振り1,000回が練習メニューの一部でしかない
って今思えば泣いて逃げ出してもおかしくなかったですね。

そんなこんなで練習は人一倍してたけど
ベンチにすら入れなかったんです。
結局実力と能力の世界。スポーツは残酷で、
スタートラインも違うし努力の方向を間違えたり、
自分の在り方を間違えれば当然結果も得られずに
後ろに回される世界でした。

そのおかげで「湊翼は野球の人間じゃない」
と思えたんです。
あれだけ練習して無理なら仕方ないなって。
だからこそ「人生で成功してやろう」と思ったんです。

正直あの練習を乗り越えた湊翼に怖いもんなんかなくて、
なんでもできる気がしてました。
まさに空も飛べるはずってくらいに。

その時、親戚がやってた整骨院の仕事やろうと思いました。
理由はお金持ちになれそうだから←

それ以外にも一生勉強できるからとか
自分の院を持てるからとかおばあちゃんの肩たたきが
好きだからとかいろいろ理由はありましたが
お金が一番でした←

3年で生徒会に入ったこともあって高校最後の文化祭は
めちゃくちゃ楽しかったです。
またもや脚本やって、撮影もやって、主演もやって、
幕間のコントもやって、体育祭では実況とかやって
お祭り男の名を我が物にしてました。

その辺の図太さというか強さは当時から持ってました。
そして大学に進学してやりたいこと見つけるなら
今やりたいことやればいいやんって思ってたので
高校を卒業して専門学校に通うため大阪で
居候させてもらうことになりますが、それはまた次回。

つづく